宮本しばにの覚え書き

studio482+店主の日々のことを綴ったブログ

第二回「しばにゼミ」のご報告

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東慶寺でのゼミ2回目が7月10、11日と、2回行われました。

梅雨の晴れ間で雨も降らず、風が気持ちいい日で、オープンエアーでやらせていただきました。

このような美しいお寺の庭を見ながらゼミをやらせていただけるのは贅沢ですね。

 

まず前半は料理。

今回は夏のお料理ということで、

エスニック冷麺」

「厚揚げのレモンソースがけ」

「ズッキーニのアーリオオーリオ炒め」

3品を参加者の皆さんと作りました。

 

「一から十まで自分でやらなければ分からない」

料理はこれに尽きるのです。

 

切り方が分からない人が分かる人に教わったり、人が作るところを見ながら発見したり、自分で行動し、理解していくことは、どんな世界でも大切なことですね。

台所に立ったつもりで、料理に勤しむ。自らで考え、行動するのが台所仕事の基本ですから、とにかく動いて、動いてー!

すり鉢でエスニック麺のたれを作ったり、

厚揚げを焼網で焼いたり、

ズッキーニとニンニクを使って、味わい深い一品に変身させたり。

 

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みんなでお食事をしたあと、後半はお話会です。

テーマは「ご馳走について」。

今回は青山俊童さんの「道元禅師に学ぶ人生」からの抜粋です。

その文章をご紹介します。

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放浪の俳人種田山頭火(たねださんとうか)を世に紹介された方で、やはり俳人であると同時に深く参禅もされた四国の大山澄太(おおやますみた)先生を、禅の集いの講師として、何度もお迎えしたことがあります。そのときに語ってくださった山頭火の思い出話が心に深く残っています。

山頭火が漂泊流浪の旅に一応の終止符をうち、山口県の片田舎の廃屋を其中庵(ごちゅうあん)と名付けて住みついたのを知った澄太先生は、さっそく山頭火を訪ねられました。前もってハガキが出されてあったので、山頭火は待っていてくれました。草道を踏む足音を聞いただけで、山頭火は裸足で庭に飛び降り、むしょうに嬉しくてしょうがないとばかりに、おろおろと出迎えてくれたのです。

 初対面なのに挨拶らしき挨拶もせず、すぐに炊きたての熱い熱いごはんを出してくれました。古ぼけた畳の上に茶碗がひとつ。一皿のおかずと箸が二本。しきりに食べよ、食べよと勧めてくれるままにごはんを口へ、そして何やらわからない黒い佃煮らしきモノを一口、口に入れてびっくり。辛い辛い唐辛子の佃煮だったんです。熱いごはんに唐辛子の佃煮で、口の中は火事のよう。涙をぽろぽろとこぼしながら、とにかく一杯のごはんをいただきました。

気がつくと、山頭火は食べずにじっと澄太先生を見ています。「一緒に食べようではありませんか」と言うと、山頭火はまじめな顔で「うちにはのんた、実は茶碗がひとつしかないんだよ。君がすむのを待っちょるんだ」と言う。あまりに唐辛子で口の中が熱いので、もう一杯いただいて合掌して箸を置いたら、山頭火はその茶碗を洗いもせず、そのまま取り上げてごはんを盛り、さも旨そうに食べ始めたそうなんです。

その日、夕方まで二人は時の経つのを忘れて、俳句や禅や旅について語り合いました。

 山頭火がなくなったあと、遺稿として残った彼の日記の中から、澄太先生が訪問された日のことが出てきたそうです。

「米がないので、もう3日も白湯と梅干しだけでやっている。気分がすぐれず托鉢に出る気がしないのである。しかし大山くんがくるというハガキが来たので、午前中2時間あまり、近郷(きんごう)を行乞(ぎょうこつ)した。米一升三合、17銭五厘をいただいた。もったいなし。もったいなし。」

 「はじめて訪ねてゆく私に食べさすために、空腹をかかえて軒から軒へとお経を誦み、托鉢してくれたのであります。その『一鉢千家の飯(いっぱつせんけのめし)』とも言うべき貴(とおと)いお米で4日ぶりにごはんを炊き、仏に供え、私にご馳走してくれたのであります。山頭火の死後、遺稿によってはじめてそのことを知った私は、いよいよ奥ゆかしい山頭火の人柄に惹かれ、思わず合掌をいたしました。」

これが本当のご馳走というものです。

亭主が客をもてなすために走り回るので「馳走」というのです。品数の多少ではない。何はなくとも、そこに真心が込められていなければ馳走ではない。真心をもてなす、これが一番大切なことなのです。」

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馳走=駆け回るという意味で、元は仏教の言葉です。

「馳走」は食事だけではなく、他の人のために奔走し、苦しんでいる人を助けることを言います。

 

ご馳走の定義は人ぞれぞれです。しかし本当のご馳走とは、高いお金を払って食べる豪華な料理とは違うような気がします。その一皿の料理の裏に物語や想いがある。それを人が食べたときに「ご馳走だ」と自然に感じるのだと。

 

もし自分が山頭火の立場だったらどうするか、という問いに対して、

参加者の意見がいろいろあってとても面白かったです。

 

これこれこういうわけで、これしか作れなかったと謝る(言い訳をする。)。

居留守を使う。

食事を出さずに、山の草花を活けて飾る。

理由を言って訪問を断わる、など。

 

お客様が来られるようなときに、山頭火のように振る舞う人はそう滅多にいないのではないでしょうか。

山頭火の、その純で無垢な心を垣間見るだけでも、心を揺さぶられます。

 

私が思う「ご馳走」は、手塩にかけて作った食材(豆腐や野菜)を、自らの手でシンプルに調理して食べたときでしょうか。食材自体がすでに奔走して作られたものだから、私の手に届いた時点では、手を加えるのはほんの少しでいいのです。

「ご馳走」は、食べる人が感じることで、作る人は「ご馳走を作ろう」と思って料理をするわけではありませんね。思惑なしで、雑念なしで、料理に一心になって出来上がった一皿を食した人が「ご馳走」と思うのです。料理するときは、食べる人によって質を変えてはいけないと思いますし、食材の良し悪しで作る気持ちを変えてもいけない。心を平らにして台所仕事に打ち込みたいものです。

 

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